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<ノベル>
「……あの、何か?」
「あっ、ええと、なんでもないです」
青年はとりつくろうよう応えると、大きな背中を丸めるようにして、再びカレー皿に向かう。
「……」
槌谷悟郎は、グラスを磨く作業に戻った。
お昼時を過ぎて、店は落ち着き、ちょうど客はカウンター席の青年だけだった。
彼はときどき来てくれるムービースターだ。近くの自動車整備工場で働いているらしい。よく頼むメニューはビーフカレーの甘口大盛り。名前は何と言ったっけ……。
磨き終わったグラスを布巾の上に並べていると、ふと、また彼の姿が目に入る。
手が止まり、その目があらぬほうへじっと視線を注いでいるのである。
もう一度、悟郎はその視線をたどった。
「……」
店の冷蔵庫だった。
カレーショップ『GORO』は小さな店である。
置かれている冷蔵庫は、業務用のものではなかった。家庭用としてはすこし大きめなものを入れているのだ。この店の年数を考えると、それはいささか古びた冷蔵庫であるように見えた。
しかし、だからといって、決して珍しいものではないだろう。
この規模の店なら厨房機器が業務用ではないことだって道理にはかなっている。
そんなにまじまじと見つめられなければならない理由が、悟郎には思い当たらないのだった。
怪訝な顔で、視線を戻すと、目が合った。
彼はまた、なんでもないです、と言った様子で食事に戻る。そのまま大盛りカレーを完食。体格に似合ういい食べっぷりだった。
レジで会計をする間も、ちらりちらりと視線が肩越しにそちらへ向かうのを、悟郎は見る。店のドアを閉める瞬間さえ、名残をのこして。
「……」
青年を送り出し、店は店主ひとりになった。
近寄って、冷蔵庫をじっと見てみる。特に異変はないようだ。
手でふれてみたり、中を開けてみたり。
「さあ、これはちょっとしたミステリーだぞ」
独り言。
ふむ、と髭のはえた顎をなでる。
かの青年はムービースターだ。人には見えないものが見えていたのだろうか。たとえば、そう――
「…………霊!?」
思わず、後ずさって、冷蔵庫から距離をとった。
しかし怪談には季節はずれだし、いまいちしっくりこない。
あとでやってきた常連客に、なにか変わったことないかな?としたり顔でクイズを出してみたりもしたが「髪切った?」だの「やせた?」だのと外れた話になるばかり。「違うよ、わたしじゃなくて店の話」「うーん……?」そんなやりとりを幾度か繰り返した。
降参だ。今度、彼が来たら訊いてみよう。
(ああ、そうだ。レオ。レオ・ガレジスタ。『スチームハート』……だったかな)
唐突に、青年の名前と映画の題名を悟郎は思い出した。
だが謎解きをしてもらう機会には恵まれないまま、日が過ぎてゆく。
その間に悟郎は前に何かの催しものではしゃぎすぎて痛めた腰がぶりかえして店を休んだりもした。
そしてその朝。
一日ぶりに店の鍵を開けた彼が見たものは。
「あれ」
カウンターに入った足の下で、水が跳ねる。
「なんだこの水……」
床に水が流れている。まさか。
慌てて冷蔵庫に飛びつき、乱暴に開ける。
「ああ」
中は水浸しだった。
肉のパックを手にとって、指で押さえるとあやしい弾力。これはダメそうだ。無念のため息が漏れた。
「仕方ない、か……。これももう随分古かったもんなあ」
致し方なく、悟郎は表の貼紙を書き換えることにする。
「店主腰痛のため休みます」というところを上書きして、「冷蔵庫故障のため休みます」になった。
「冷蔵庫、壊れちゃったの!?」
レオが店に飛び込んできたのは、その日の昼のことだった。
昼食を摂りに訪れた客たちが、臨時休業の貼紙を見て残念そうにきびすを返す中、レオだけはドアを開けて入ってきたのである。
その時、店には悟郎と背広の男がいて、テーブルで話し合っているところだった。男は悟郎が呼んだ厨房機器メーカーの営業マンであり、悟郎の手の中には業務用冷蔵庫のカタログがあった。
「ああ、そうなんだよ。古いのがとうとういかれちゃってね。だから今日は休業なんです。すいません」
店主がそう言っても、レオは立ち去ろうとはしなかった。
整備工場の機械油に汚れたツナギのまま、まわりこんで冷蔵庫へ近づく。
午前中いっぱいをかけて、悟郎がいたんだ食材を処分し、あたりを掃除した。
「あ、あの……?」
とまどう悟郎をよそに、レオは軍手をはずすと冷蔵庫の表面にそっと手をふれ、コツコツと叩いてみたり、なでさすってみたり、耳を寄せてみたりしていた。それはまるで、触診する医師の様子にも似ていた。
「調子悪そうだったもんね」
ぽつり、とレオは言った。それは店主に言った言葉ではなかったが、
「あ」
そこでやっと悟郎は思い当たる。それで冷蔵庫を気にしてたのか。しかし、触ってもいないのに……?
「でも大丈夫。これなら治るよ。僕が治す」
きっぱりとレオはいい、鋼色の瞳で悟郎を見た。
威圧感のある巨躯とは裏腹に、彼の表情は奇妙なほど穏やかで優しい。大型の草食獣を思わせる眼差しだった。悟郎はその目に見つめられて、なぜだか、ぎくりとする。
「でもご主人」
口を挟んだのは厨房機器メーカーの営業マンだ。敏感に雲行きの不利を悟った。彼の氏名はこのカレー店店主に自社の製品を買ってもらうことにある。
「随分、古いものですし、今、修理されても、また故障しますよ。そのたびごとに今日みたいなことになったらお店の営業にも障りますでしょう? ここはやっぱり、新しいものをお入れになったほうが。これなんか今、お勧めしてるんですけどね。コンパクトですから、こちらのような小じんまりしたお店にも合いますし――」
「でも治るよ!」
レオが言った。
「治ったら、まだ働ける。そりゃあ、新しいものよりは劣るかもしれないけど……でも動くんだったら、働かせてあげてよ!」
懇願するように、彼は言うのだ。
まるで、冷蔵庫の気持ちを代弁するかのように。
「……」
「ご主人、古い家庭用なんて恥ずかしいですよ」
「お願い、おじさん、棄てないであげて!」
「う〜ん」
人のよい店主は板ばさみに唸った。
しかし、営業マンの瞳は職務をまっとうせんとする熱心さに燃えるものであったが、レオのそれはただ純粋でひたむきな気持ちに満ちていたのだ。
何よりも、その冷蔵庫は……長年、なじんだ品物なのであって。
「……よし、じゃあ、ひとまず、修理をお願いするよ」
悟郎はそう応えた。
がっくり肩を落とした営業マンを、なにかあったらまたお願いするからとなだめて送り出しす。
レオの大きな身体は冷蔵庫をひっぱりだしたカウンター内ではあまりに窮屈そうだったが、彼は何の頓着もしていないようだった。
「きみ、たしか自動車整備の工場で働いてるんだよね」
「うん。でも機械ならなんでも治すよ。マイスターだもの」
レオはたくさんの工具類をベルトのまわりに携帯していた。それらを床に並べ、順番に手にする様子は手術中のドクターにも似て。特に機械に詳しいわけでもない悟郎にしてみれば(もっとも、冷蔵庫の構造や仕組みについて知っている人間は限られるだろう)何をやっているのかも定かでない作業を行っている。身体はごついのに、手先は随分と器用で繊細であるらしかった。
悟郎にできることは見守る以外なさそうだったので、コーヒーを入れることにする。
サイフォンがコポコポと音を立て、いい匂いがし始める頃、レオはふう、と息をつき、大きな背を伸ばす。
「治ったよ」
よいしょ、と冷蔵庫をもとの位置に戻し、にっこりと、子どものような笑みを浮かべるのだった。
「お疲れ様。助かったよ」
レオの前に置いたカップに、コーヒーを注ぐ。
「冷蔵庫がまた働けるようになるなら、それが一番だから」
「業務用のはさすがに値が張るからなあ。そういう意味でも助かった」
笑う悟郎。
「これからも使ってあげてね。……今までみたいに」
レオがぽつりと言った言葉に、悟郎は目をしばたく。
彼の言い方はまるで、この冷蔵庫の今までの越し方を知っているような口ぶりだったからだ。
「まさか――、そんなことも?」
「長い間、大事にされてきたのはわかるよ。マイスターなら機械の声は聞けるし、機械は正直だから」
「……」
声といっても文字通りの意味ではないだろう。だが少なくとも、彼には聞こえるのかもしれないそれを、悟郎は聞くことができない。
「わたしが使い始めたのは……この店を始めてからだよ」
告白するように、店主は語った。
「その前は、自宅に置いてたんだ。だから……、冷蔵庫を使うのはおもに妻だったんだ」
レオはこのカレー屋店主の個人的な事情を知らない。
実のところ名前さえ知らないのだ。ただ、たまに寄る店のおじさんとしか。
槌谷悟郎がかつて大手映画製作会社のプロデューサーであったことも、離婚を経験していることも――。
★ ★ ★
「うお――っ、と。ああ、わかったわかった」
飛びついてくるゴールデンレトリバーをわしわしなでる。
「あら、帰ってきたの」
パジャマ姿の妻がリビングから顔をのぞかせる。
「食事する?」
「いや、いい。シャワー浴びてちょっと仮眠したらまた出かけなきゃ」
言いながら、服を脱ぎ捨てバスルームに消えた。
「もう、せめて洗濯機に入れてよね」
床の上の下着を拾い上げると、愛犬が寄ってきて、あるじの抜け殻の匂いを嗅いだ。
「困ったパパね」
息をつきながら、やわらかな毛並みをなでた。
槌谷悟郎の妻は女優だ。
もっとも、結婚してからは女優業はほとんどしていない。たまに婦人雑誌でモデルになったり、頼まれてエッセイを書いたりする程度である。
ご多聞にもれず、夫とは仕事で知り合った。
結婚前まではそこそこテレビにも出ていたから、結婚が決まった時は夫の顔もずいぶんとワイドショーで放送された。業界では鬼のプロデューサーで通っていていても、一般人はプロデューサーなどという裏方のことは知らないから、女優を射止めてしてやったりな男と映ったはずだ。
彼女の夫になった男は、しかし、決してプレイボーイではなかった。
だからその点は世間の想像とは違っていて、彼女は撮影の合間に口説かれたのではない。ただいつかの打ち上げの席で近くに座って――その時はあまり大した話もせず、そのあと、誰かと一緒にたまたま食事をともにした際に、この男がたいそう仕事熱心なのを知った。彼は、彼女がずいぶん前に出た映画のワンシーンのことをやたら仔細に覚えていて、その時の演技の、ごく細かいところが、監督の演出なのか、女優自身のアイデアなのか聞きたがった。正直、彼女自身は覚えていなかったのだけれども。
プロデューサーという職種は、脚本を書くわけでもないし、撮影をとりしきるわけでもない。むろん演技もしない。映画づくりの現場にいるが、いわゆるクリエイティブな作業を担うものではなかった。
けれど槌谷悟郎と話すたびに、彼女は、彼がほとんど職人とさえ呼べるほどの、つくり手の魂に忠実であることを知ったのだった。
「ああ、だめだめ。ロケハンを急がせるから。とにかく、プリプロは絶対に今月中に終えないと」
食事はいらないとは言われたものの、どうせ外では大したものを食べていないのだろうからと、夫がやすんでいる間に、ホールトマトの缶を開けてミネストローネをつくった。バケットをオーブンであぶって、起きてくると言った時間に合わせて皿に盛っていたところ、寝室から飛び出してきた彼はもうジャケットまで着ている。そして携帯電話に向かってなにか怒鳴っているのだった。
愛犬がしっぽを振って寄っていったが、
「『ハウス!』――ごめん、なんでもない。いや、犬がね。あと10分でそっちに行くよ。あ、それからさ――」
と言って今度は飛びつかれるのを阻止し、自分は電話をしたまま出ていってしまった。
バタン、と閉じるドア。
所在なげにうろうろする犬。
そして湯気の立つミネストローネ。
彼女は時計を見た。夜中の3時だった。
犬を飼いはじめたのは、結婚して2年目のこと。
夫妻には子どもはいなかった。
「犬を飼いたいと思うんだけど」
「いいんじゃない」
夫はあっさりと言って、目を細めた。このマンションでは、ペットも許可されている。しかし、だからといってためらいがなさすぎだ。
いつもそう。
仕事ではNOばかり連発する、その反動だとでもいうように、家の中ではYESしか言わない。
そろそろ、舞台の仕事とかも受けてみようかと思うんだけど。
――ああ、そうしなよ。
私もカンヌに着いて行ってもいい?
――いいよ。観光の時間はあんまりとれないかもしれないけど。
車、買い換えちゃだめかしら。
――いいんじゃない。買いなよ。
お土産にもらったの。すごくいい生ハムなんだって。
――うん、おいしい。こりゃうまいな。
昨日、お義母さんから電話があったわ。
――言わせとけばいいんだ。できるときはできるし……ヒット作と同じだよ。
今度、ゆっくり話したいことがあるんだけど……。
――いいよ。どこかホテルのレストランでも予約しようか。
……だからだろうか。YESしか言わない夫からNOと言われるのがこわくて、言えなくなってしまった言葉がたくさんある。
夫婦でときどき取材を受けた。
雑誌の誌面に載るのは、いくつになっても若々しい女優の妻と、大手映画会社の敏腕プロデューサー。スタイリストをつけるまでもなく、ふたりのワードローブは最新の流行をおさえつつも、目立ち過ぎない、卓抜したセンスを感じさせるものだった。キッチンもリビングも、ショールームみたいだと皆が驚き、あこがれた。子どもはいないが、大きな犬が家族の一員。やさしい瞳のゴールデンレトリバーをなでながら、ふたりがソファにかけた写真を見て、夫妻でCMに出てほしいと広告代理店から電話があったこともある。
夫は多忙だったが、妻の誕生日や結婚記念日を忘れることは一度もなかった。
激務の合間をぬっては、はやりの店にも行ったし、海外旅行もたくさんした。
むろん収入の面では申し分などなかった。
だからふたりの離婚が報じられたとき、誰もが耳を疑ったのだ。
「帰ってこれない?」
「ええっ? どうしたの」
電話の声は、聞いたことないくらいに硬かった。
「もう――ダメみたいなの」
「ああ……」
数日前から、飼い犬の様子が思わしくなかった。
一年ほど前に、病気が見つかって、手術もしたのだけれど。
「……ごめん、今すぐは無理だよ。でもなるべく努力する」
「……そうよね。ごめんなさい」
電話は切れた。
結局、家に戻れたのは次の日の昼前になった。
「……」
「……」
リビングに、妻は座り込んでいた。
犬が、その前によこたわっている。一目で、それがもう命がない骸だとわかった。
「……ただいま」
「……おかえりなさい」
「……あの……」
「……冷蔵庫にポトフがあるわ。すぐ温めるから……」
「いや、いいよ。自分でやるから!」
妻を制して、キッチンへ逃げるように行った。
冷蔵庫に手をかけて……表面に張られたメモや写真の数々に気づく。
愛犬の写真もあった。
雑誌から切り抜いたふたりの写真も。
冷蔵庫を開けるとポトフの鍋のほかに、ぎっしりと食材や、タッパに小分けにされた料理が入っていた。
いつ帰ってくるのかわからない夫のために用意された品々だ。
ブン――、と冷蔵庫が唸りをあげる。
なんだか、責められているような気がした。
そうだ、たぶん……冷蔵庫は彼女の姿をずっと見ている。いつも、どんな気持ちでここに立ち、料理をしながら彼の帰りを待っていたのかも。
リビングのほうから、しくしくと、彼女の泣く声が聞こえてきていた。
★ ★ ★
「あ、そうか」
唐突に、悟郎は気づいた。
レオが帰った店内にひとり。カウンター席にかけているのは店主だけだった。
「犬だよ、犬」
妙になつかしいような気分になったのはなぜかといえば……、レオ・ガレジスタの風体やまなざしが、どこかしら、大型犬に似ているからなのだった。
「犬は好きだけど……苦手だ」
誰にともなくひとりごちて、自嘲めいた笑みに頬をゆるめる。
「かなわないもんな」
席を立って、伸びをした。
さて、明日の準備をしなくては。
明日からは、通常営業ができそうだった。
(了)
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クリエイターコメント | 大変、お待たせいたしました。 語弊をおそれずに言うならば、バツイチというものにある種のロマンを感じざるをえないリッキー2号です。離婚の理由なんて、決して余人にはうかがいしれぬものなのだと思います。
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公開日時 | 2008-11-10(月) 19:50 |
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